一休宗純作品の買い取りはおまかせください。ご不要となり、処分売却をご検討の一休宗純作品がございましたら、買い取りさせて頂きます。出張買い取りや店頭買い取りや宅配買い取り、さまざま方法で買い取り対応致します。
【目次】
だれもが知る「一休さん」、その足跡について
歌人としての一休宗純の姿
書を作り、茶に親しむ~一休宗純と芸術
一休宗純の買取りは永寿堂へ!
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一休宗純の人物と買取りについて
だれもが知る「一休さん」、その足跡について
「一休宗純」という名前には聞きなじみがないという人であっても、「一休さん」というとどんな人物であったかを思い浮かべられることでしょう。
子どもに聞かせる偉人伝にも出てくる人物であり、子どものころから才気に富み、利発な人物であったとして知られています。
この一休宗純は、幼名を「千菊丸」といいます。雅やかな幼名から推測できる人も多いかと思われますが、彼は天皇家の生まれです。後小松天皇と藤原一族の娘の間に生まれました。しかし母は千菊丸を身ごもっていたときに宮廷を追われ、嵯峨にその身を隠すことになります。
政争に子どもが巻き込まれることを恐れた母は、わずか5歳の子どもであった千菊丸を、世俗と隔離されたお寺(臨済宗安国寺)に預けます。ちなみに「一休さん」を語るうえで欠かせないエピソードである「屏風の中の虎の話」は、彼が8歳の頃のものだとされています。
16歳のときに、彼は西金寺の僧侶のものに預けられ、ここで「宗純」の名前を授かります。ちなみにこの名前は、彼が尊敬する師であった僧侶から引き継いだものです。なおこの師匠は宗純が20歳のときに亡くなりますが、宗純は彼の後を追って入水自殺(未遂)を図っています。
24歳のときに、彼は「人生とは、煩悩があふれる此岸から、彼岸に旅立つまでのほんのひとやすみの頃の話である。雨よ降るならば降れ、風よ吹くのならば吹け」と謳います。そしてここで出てきた「ひとやすみ=一休」から、「一休宗純」の名前を受けることになります。
彼が悟ったのは26歳のころです。座禅を組んでいる最中に、「見えない状態であっても、鳥はそこにいる。確かめることはできなくても、仏は心にある」と考えるに至り、ついに悟りを得ます。ただ、彼はその人生の後半で、元芸者と結婚したり、実子を設けたり、髪や髭を伸ばしたりといった、当時の僧籍の実にはあるまじきことをしていますから、このようなことをもって「悟りを得ていない」とするのであれば、「悟りを得なくても良いことを悟った時期である」とも解釈はできそうです。
「市政の人に自ら交じり、できるだけ多くの人に仏教を伝えていく」「ほかの宗派の、ずっと年下の僧侶とも親しくまじりあう」「末期の言葉は『死にたくない』であった」などのように、破戒僧ともいえる「人間らしい」生き方を貫いた一休宗純は、その出自と生き方とともに、今も伝え続けられています。
歌人としての一休宗純の姿
古今東西、昔から宗教者は「芸術」と縁近いものでした。宗教建築はもちろんのこと、宗教者自身も数多くのすばらしい芸術品を残しています。
もちろん、一休宗純もその例にもれません。
彼は歌人としても非常に有名で、数多くの歌集を残しています。たとえば、(真面目な作品も収録されてはいるものの)酒や遊女との遊びをつづった「狂雲集(きょううんしゅう)」などは一休宗純の人生そのものを表したものであるといえますし、自分の兄弟子とその一門に対して痛烈な批判を展開した「自戒集(じかいしゅう)」は彼の代表作として知られています。ちなみに、少し毛色の違う「仏鬼軍絵巻(ぶっきぐんえまき。単純に「仏鬼軍」と書かれることもある)では、「菩薩たちが」地獄に攻め込む内容のストーリーをしたためています。
彼は後年に得た妻の美しさを多く称える歌も残しており、そのあけすけな賞賛は、今に生きる私たちが見ても思わず赤面してしまうほどのものです。
彼はこのように妻の美しさを称えながらも、「戒律をただ守るだけでは、ロバと同じである」「人も仏も猫も何もかも、ただすべては生まれ、死んでいくのみ」などのように、およそ僧侶らしくはない歌も作っています。
これらのなかには本当に一休宗純が書いたものであるかどうか疑わしいとされるものもありますが、いずれにせよ、当時のごく善良な僧侶であったのであれば書くはずのないこれらの作品を一休宗純ならば書きかねない……と考える人は多かったものと思われます。
書を作り、茶に親しむ~一休宗純と芸術
「歌人としての一休宗純」から少しだけ焦点をほかのところに向けて、「茶人としての一休宗純」「書道家・能筆家としての一休宗純」を見ていきましょう。
「四畳半の茶室」につながる概念を確立した一休宗純という存在
破戒僧として、あるいは歌人としてその名前を伝えられている一休宗純ですが、彼は茶人としても書道家としても有名でした。現在につながる「侘び茶」の考え方は一休宗純が作ったものです。従来のように、派手で、形式的で、階級を感じさせる従来のお茶のかたちを否定し、だれもが静かに、身分や形式に縛られることのない茶の道を作り上げました。彼はこのような茶の道を愛し、そしてその茶道によって茶を供する主人の心こそに、仏の姿を見たとされています。
ちなみに教科書などで習ったことのある人もいるであろう「四畳半の茶室」を考えたのは村田珠光という人物ですが、彼はこの一休宗純に師事し、その侘茶の概念を色濃く受け継いだとされています。
書は人生の現れ~威厳と反骨精神に満ちた一休宗純の書
書道家・能筆家としての一休宗純の姿にも焦点を当てていきましょう。
彼は、彼の人生そのものを表すかのように飄々とした軽やかな書をしたためたと伝えられています。ただそこには「浅薄である」と切って捨てることは許されないような威厳に満ちた毅然とした態度の現れがありました。
また彼は、腐敗し、貴族化し、権力におもねるように変化していった僧侶たちの在り方を凛然と批判した人物でしたが、書にもその性格がよく現れているとされます。彼の描き出す書は、当時の書の世界においては移植ともいえるもので、非常に個性的です。また文字から、権力(やそれにこびへつらう宗教者)に対する反抗の意志がはっきりと見て取れます。
彼が茶人であったことはすでに述べた通りですが、彼のこの個性的な書は当時のほかの茶人にも広く受け入れられました。子ども向けの「一休さん」では語られることはあまりありませんが、このようなことから、彼は「茶人が重んじる書をしたためた人物であり、また茶人と親和性の高い人物である」とされています。
一休宗純は、だれもがその名前を知りながら、「結局どんな人だったのかまでは、そういえば知らない」「屏風のエピソードと、『この橋渡るべからず』のエピソードしか覚えていない」と答える人が多い人物だといえます。
しかし実は彼は、時の天皇の子どもとしてこの世に生を受け、自らの出自とは相反するように権力者にすり寄る宗教者を厳しく咎め、自らが「破戒僧」となって妻や実子を得、多くの人を救うべく市民に交じりながら禅を広げた波乱万丈の人生を送った僧侶なのです。
彼の残した歌や書には、彼の人生観が色濃く受け継がれています。そしてそのようにして作られた歌や書は多くの人の心をとらえ、現在に長く受け継がれるものとなりました。現在では僧籍にある人も結婚し実子を設けることが当たり前になっていますが、一休宗純の書は、そのような「現在の在り方」をほほえましく見守っているのかもしれません。
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