骨董品買取りの永寿堂「【岡田茂吉買取】岡田茂吉の書や掛け軸買取は永寿堂へ」|愛知・名古屋を中心に全国へ骨董品を出張買取します

骨董品買取店 永寿堂への電話アイコン 骨董品買取店 永寿堂への電話 line

お知らせ・コラム

NEWS
【岡田茂吉買取】岡田茂吉の書や掛け軸買取は永寿堂へ
岡田茂吉タイトル

岡田茂吉作品の買い取りはおまかせください。ご不要となり、処分売却をご検討の岡田茂吉作品がございましたら、買い取りさせて頂きます。出張買い取りや店頭買い取りや宅配買い取り、さまざま方法で対応致します。

【目次】
岡田茂吉の人生について~農業家・宗教家、その歩み
美術品の収集家としての岡田茂吉の顔について
能筆家としての岡田茂吉の顔について
岡田茂吉の買取りは永寿堂へ!
 永寿堂へのお問い合わせ先

 

岡田茂吉の人物と買取りについて

岡田茂吉の人生について~農業家・宗教家、その歩み

「岡田茂吉」という名前を知り、またその功績を詳しく説明できる人は、そう多くはないかと思われます。彼は美術品の収集家であり、農業家であり、宗教家であり、事業家であった人物です。
このように数多くの顔を持つ岡田茂吉について知るためには、まずは岡田茂吉の人生の歩みを知っていかなければなりません。

岡田茂吉は、明治15年に戸井経の浅草で生まれました。現在の東京芸術大学の全身となる東京美術大学の予備課程に15歳で進学を果たしたものの、そのわずか半年後に眼病を患い退学します。さらに、肋膜炎や肺結核を次々と患い、その生存すら危ぶまれながら10代後半から20代前半の時代を過ごします。

明治40年には結婚をし、装身具の卸商を始めるようになりますが、この時期にもまたさまざまな病気を患うこととなりました。そしてそのなかでも、世界10か国で特許を取ることになる「旭ダイヤモンド」を開発、この旭ダイヤモンドで得た利益はのちに、岡田茂吉が数多くの事業を行うための資金となります。

長く連れ添った妻との死別や関東大震災を経験しながら、岡田茂吉は宗教家としての歩みを始めます。彼の作り出した事業は番頭が引き継ぎ、昭和10年には立教、そのなかで「土の力を生かし、肥料を使わずに作物を作り上げる」という理念のもと、自然農法を実施していきます。彼の掲げたこの自然農法の考え方は、その宗教観との親和性も高く、令和の現代にも息づいています。

宗教家として自らの宗教を広めていく傍ら、彼は美術品の収集家として、あるいは能筆家としての活躍も続けていきます(後述します)。そして昭和三十年、国宝の茶壷を入手した年に、その命を閉ざします。

 

美術品の収集家としての岡田茂吉の顔について

岡田茂吉は、現在もその存在が確認されている世界救世教いづのめ教壇の始祖とされる人物です。しかしここでは、この教義や活動に触れることはせず、彼が美術史においてどのような存在であったかということにのみ焦点をあてて解説していくこととします。

岡田茂吉の思想のうちのひとつに、「美術品は、だれか一人だけが独占するものでは決してない。一人でも多くの人に触れさせ、見せ、楽しませ、それによってその人の品性を高めるためにこそ使われるものである」というものがありました。このようにして公開される美術品こそが、人の人間性を高め、文化の発展に役立つと考えていたのです。

岡田茂吉が生きていた時代、日本は激動の時代にありました。日本を含む東洋の美術品がもっとも多く海外に流出したのは江戸時代末期~明治時代初頭の明治維新の時代ですが、その後も、第二次世界大戦後には数多くの東洋美術銀が国外へとその身を「身売り」されていきました。
岡田茂吉は、この「第一の東洋美術品流出期」ともいえる時期にはまだ生を受けていませんが、「第二の東洋美術品流出期」である第二次世界大戦直後には存命中でした。彼は国外へと売られていく日本の美術品を国内にとどめおこうとした人物だったのです。彼はその財力と知識を以って、優れた東洋美術品の流出を防ぎました。

そしてそんな彼の理念と行動を掛け合わせたものとして誕生したのが、「箱根美術館」「MOA美術館」です。
昭和27年に箱根に誕生したこの美しい技術館は、箱根に現存する美術館のなかでもっとも古く、四季折々の美しい風景までをも楽しめる美術館としてよく知られています。
また、それから30年後の昭和58年には「MOA美術館」を開設します。海抜250メートルのところに位置するこのMOA美術館は、伊豆大島などを眼下に見ることのできる非常に景観に恵まれた美術館であり、箱根美術館に勝るとも劣らない美しい風景を楽しむことができます。ちなみにMOA美術館の方は、現代美術作家の巨匠と呼ばれる杉本博司氏と、建築家である榊田倫之氏によって2017年にリニューアルされています。

岡田茂吉はこの箱根美術館やMOA美術館で、彼が手に入れた数多くの美術品を展示します。この美術館を訪れる人が美しい芸術品に親しむことができるようにと願ってこれらの建物を建てていったのです。
また晩年には、国宝である尾形光琳の「紅白梅図屏風」や、同じように国宝である野々村仁清の「色絵藤花文茶壺」を手に入れています。

宗教家としての岡田茂吉の歩みについては、当然、彼を支持する人もいれば支持しない人もいることでしょう。しかし美術品のコレクターとして数多くの東洋美術品を集め、国外への流出を防ぎ、そしてそれを多くの人がその目で楽しめるようにと尽力した功績は、称えられてしかるべきものだといえます。

岡田茂吉の掛け軸イメージ

 

能筆家としての岡田茂吉の顔について

岡田茂吉は、宗教家あるいは美術品収集家・美術館の開設者としての顔によく焦点があてられるからか、能筆家として取り上げられることはそれほど多くはありません。
しかし実は岡田茂吉はその生涯で数多くの書をしたためた人物であり、また書だけではなく絵画を手掛けた人物でもあります。

岡田茂吉は72歳で没していますが、揮毫(きごう。人に頼まれて、文字や絵をしたためること)はその死の直前、71歳のときにまで行われていたとされています。岡田茂吉がしかし全体的に、力強く、太く文字を書くことが多かったとみられます。

しかし、岡田茂吉の書を評する言葉は決して多くはありません。それは彼の描き出す文字や絵画が、その人生ゆえに、宗教に直結するものばかりであったことに関係しているのかもしれません。また真贋の見極めが非常に難しいのも、岡田茂吉作品の特徴です。直筆で書かれたものがある一方、複製されたものも広く出回っています。70年前、まだ岡田茂吉が存命中だった時代にはすでに、教団広報誌にて岡田茂吉の書の贋作が出回っているとして警告が出されていたほどです。

岡田茂吉に限ったことではありませんが、贋作は非常に巧妙です。もちろん押された印などから贋作であることを見抜けるものもありますが、非常に精工に作られた贋作の場合は、まったく知識のない状態でそれと見抜くのは極めて困難でしょう。かつては教団内でその受け渡しが厳粛に管理されていたと言われていますが、岡田茂吉の没後65年以上が経った現在では、「岡田茂吉の書とされているものが家にあるが、これを手に入れた曾祖母もすでに亡くなっている」ということもあるでしょう。このようなことが、さらに判断を難しくします。

しかし私たち永寿堂にお持ちいただければ、正しい真贋判定をします。正しい知識と確かな目による鑑定で、しっかりと岡田茂吉作品に向き合います。

 

岡田茂吉の買取りは永寿堂へ!

岡田茂吉の売却であれば買取りします

岡田茂吉の作品を売るなら永寿堂へお持ちください。永寿堂では、宗教家であり美術品収集家であり美術館の開設者であり、農業家であり、能筆家でもあった岡田茂吉の作品を一つひとつ丁寧に査定します。多種多様な骨董品の買い取り実績があり、豊富な知識を有し。骨董品の販売ルートを多数用意しているため、それを生かした高価買い取り価格を提示します。
売却方法も店舗買い取りや出張買い取り、宅配買い取りなど、お客さまの都合にあった方法が選択できます。気になった方は、以下の問い合わせからお気軽にご相談ください。

永寿堂へのお問い合わせ先

・TEL:0120-060-510
・メール:info@eijyudou.com
・LINE ID:@721crjcp

関連記事