岡本太郎の絵画や版画、ブロンズ像やティーセットなどを買取りします|愛知名古屋の骨董品買取は永寿堂へ

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【岡本太郎買取】岡本太郎の絵画やオブジェ買取は永寿堂へ
岡本太郎タイトル

岡本太郎の作品を買取りしております。大阪万博の太陽の塔を制作し日本を代表する画家で芸術家である岡本太郎が制作した絵画やオブジェのご処分売却をお考えであれば高価買取させて頂きます。

【目次】
岡本太郎の経歴や作品や買取り情報について
 岡本太郎(おかもと たろう)について
  岡本太郎の略歴
  原色を多用した岡本太郎の作風
  岡本太郎の買取相場
岡本太郎の買取りは永寿堂へ!
 永寿堂へのお問い合わせ先

 

岡本太郎の経歴や作品や買取り情報について

岡本太郎(おかもと たろう)について

岡本太郎は、「芸術は爆発だ」という言葉と共に、大勢の人から知られている、日本を代表する芸術家です。太郎は1911年に、漫画家である岡本一平と、小説家や歌人であった岡本かの子の下に生まれました。父親の一平は、漫画家として高い知名度を誇りながら、収入のほとんどを酒の購入に使用してしまう人でした。そして、かの子は箱入り娘であったため、家事ができず、太郎もろくな育児をしてもらえませんでした。それどころか、一平公認の愛人を家に連れ込む始末で、太郎は複雑な幼少期を過ごすこととなります。

1917年になると、太郎は小学校へと入学しますが、馴染むことができず、複数の学校を転々とします。そして、流れ着いた慶應義塾幼稚舎で、担任となった位上清のおかげで、通学ができるようになります。その後、慶應義塾普通部へと進んだ太郎は、学科試験がないという理由だけで、特に強い意志も持たず、東京美術学校に進学します。

岡本太郎は、ピカソから大きな影響を受けた芸術家としても有名です。太郎がピカソ作品に初めて触れたのは、1932年に家族で訪れたパリです。父親の一平が、ロンドン海軍軍縮会議を取材する特派員に選ばれ、太郎も東京美術学校を休学し、同行しました。そして、偶然訪れたパリのポール=ローザンベール画廊で、ピカソの「水差しと果物鉢」を目にし、大きな衝撃を受けました。そのことをきっかけに、太郎はピカソを超えることを意識するようになります。

特派員の役目を終えた両親が帰国をしても、太郎は1人パリに残りました。そして、美術団体であるアプストラクシオン・クレアシオン協会に加盟したり、文化人類学者の教授であったマルセル・モースに師事したりするなど、画家としての修行を続けます。その時にでき上がったのが、太郎の代表作のひとつである「傷ましき腕」です。

1940年に、ドイツ軍がパリに侵攻すると、太郎は日本に帰国します。帰国した太郎は、「傷ましき腕」が二科展で受賞したり、個展を開いたりするなど、芸術家として活躍します。しかし、太平洋戦争が勃発したため、太郎も徴兵されることとなります。太郎は30代であるにもかかわらず、徴兵検査によって現役相当と見なされました。そして、敢えて軍人として昇進することを避け、終戦を迎えます。

終戦後、太郎は中国で1年間捕虜として生活し、日本へと帰り着きます。ただ、東京にあった絵は、家と共に全て焼けてしまっていました。そのため、太郎は両親と親交のあった川端康成の下で、居候として生活をします。その後、母であるかの子の作品全集が発売され、まとまった資金を得られたため、東京の世田谷にアトリエを構えました。戦後の岡本太郎は、当時の日本芸術に挑戦する姿勢を見せています。そして、「新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言しました。1948年には、作家の花田清輝と夜の会を結成し、より過激な芸術活動を進めていきます。

1967年には、太郎はメキシコを訪れています。大阪万博のプロデューサーを引き受けたにもかかわらず、メキシコが好きであった太郎は、ホテル経営者であるマニュエル・スワレスの依頼を引き受けます。そうして出来上がったのが、原爆をテーマとした名作「明日の神話」です。メキシコから帰国した太郎は、大阪に万博用のパビリオンを完成させます。そして、万博が盛況であったため、万博を代表するモニュメントであった太陽の塔は、永久保存されることになりました。

大阪万博が終わってからは、太郎はテレビに積極的に出演するようになります。歯に衣を着せない発言や、個性的なリアクションによって、大勢の人に知られることになります。太郎は、テレビ出演と並行しながら、芸術家としても活動を続けます。そして、1996年に、84歳でこの世を去りました。

岡本太郎の絵画作品

 

岡本太郎の略歴

1930年 1月にパリに到着。以後約10年間を過ごす
1940年 日本へ帰国
1942年 太平洋戦争に補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征
1946年 終戦後、日本に帰国
1948年 花田清輝らと「夜の会」を結成
1969年 壁画「明日の神話」を完成
1970年 「太陽の塔」が完成

 

原色を多用した岡本太郎の作風

岡本太郎は、原色を積極的に使用する芸術家です。当時の美術界から非難されても、原色を使用することは止めませんでした。それは、灰色が中心であった、侘び寂びの芸術に対する挑戦だとされています。また、太郎の作品は、奇抜な色使いと共に、大胆な構図であるのが特徴です。ただ、乱雑な構図ではなく、バランスが取れていることで、高く評価されることが多いです。

 

岡本太郎の買取相場

岡本太郎は、日本を代表する芸術家の1人であり、世界的な知名度もあります。そのため、岡本太郎作品の買取相場は、絵画や彫刻などの種類に関係なく、数万円~数十万円と高価買取が期待できます。

 

岡本太郎の買取りは永寿堂へ!

岡本太郎の買取りは永寿堂へ

岡本太郎の作品を売りたいとお考えであれば、ぜひとも「永寿堂」におまかせ下さい。大阪万博の太陽の塔を制作し日本を代表する画家で芸術家である岡本太郎が制作した絵画やオブジェ作品を高価買取させて頂きます。

当社は絵画やオブジェ作品をはじめ、幅広いジャンルを取り扱っております。骨董品や陶芸品や骨董品や絵画や掛け軸や茶道具や美術品や書道具やアンティーク品など、さまざまなコレクション品を買取りさせて頂きます、電話またはメールでお問い合わせください。

 

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